父親のことと、大阪旅行記-3

つづく、つづく、と書いているうちに、関西からの旅から二週間近くが経過してしまった。帰った直後は色々と吐き出したい思いはあったものの、だんだんと頭の火照りも冷めてきてけっこう落ち着いてきた。とはいえ中途半端になるのもナニだし、せっかくなのでその後の旅の事も書いてみたい。



父と会った翌日は朝から神戸は三宮駅にいた。
阪急、阪神、私営地下鉄、ポートライナー、JRそれぞれに駅を構える神戸の玄関口であるこの駅には、大阪駅から二十数分で到着する。
ちなみに、反対方面へそれよりもう少し電車に乗れば京都になる。わずかな時間の乗車で街の個性が様変わりするのも関西の面白いところか。大阪の街で一人旅というのもピンとこず、京都はかつてに行ったことがあったので、異国情緒を味わう神戸紀行としゃれこむことにした。


三宮は硬い氷の粒が降っていた。
道中、一呼吸おくとすぐさま、昨夜の父の上機嫌な顔が浮かんでくるが、今日は観光をしてまわろうと思っていた直後の、思いもがけない悪天候である。やや肩を落とすも、わけありの旅を演出するにはこれもまた一興と、自分に酔うことで気持ちを誤魔化しにかかる。

駅前の広場から北野の街を登る。登る、というのは、北野はその名のとおり三宮〜元町の北側に位置する町で、南側の港町から鉄道を挟んで一気に坂を上っていくような感覚だからだ。神戸では単純に北に行くことは坂を上ることであるようで、それは東京の比ではないほどわかりやすい高低差である。
北野は軒を連ねるアトリエや雑貨屋、レストランといった建物は煉瓦造りを主としていて、独特な雰囲気を醸し出している。地元の人も観光名所には行かないがここには来る、という居心地のよさそうな通りだった。一般道を登りきるとそこからは本格的に山になるようで、坂は性急さをぐんと増すと共に石畳の通りが広る。そして、ほぼ階段のような角度の坂を登りきったあたりに学問の神様が祭られる北野天満宮があり、その隣にはNHKのドラマでも有名になった、かの風見鶏の館があった。
風見鶏の館をはじめとしてこれ以降、延々とこの界隈の、いわゆる異人館街の家々を観て周った。自分では和ものが好きでエキゾチックな雰囲気は苦手だと思っていたが、建造物はどんな国のものでもテンションがあがるようだ。鮮やかな石造りの外装に高級感漂う調度品が並ぶ室内。今にしたって目を惹くこれらの家に住んだ、かつて“異人”と呼ばれた家族達の思いはいかばかりか。この眺めの良い高台から神戸港を望み、その向こうにある母国を偲んだりしたんだろうか、なんてことは今の自分には知る由もないのだけれど。


その後、北野を下り、JR三ノ宮に戻る。ここから西に500mほど行くと元町駅、さらに行くと神戸駅へと続き、この間の高架下には延々と広がる商店街が続いている。三ノ宮から元町までをピアザ、そして元町から神戸までは通称「モトコー」こと“元町高架下商店街”となる。高架下という狭い路地の両側に洋服、雑貨、喫茶店、レコード屋、おもちゃ屋などなどあらゆる店舗が犇めき合っており、その商品郡も玉石混合である。その狭さもさることながら、雑多で勢いのある雰囲気は、東京の大山や上野や戸越や中野といったどの商店街にもないものがあった。駅から浜側に展開する中華街“南京町”とあわせて、こういうアジア的なパワーもまた神戸の顔の一つだ。


南京町を通り、さらに南へむかうと海が見える。真冬の海風が体温を奪うが、とりあえず観光地っぽいところへ行きたくなり神戸ポートタワーへ向かった。鼓のような円形を成した珍しいビル。ここで会社の人へのお土産も買いつつ、入場料を払って展望台へ登る。右手にはファッションビルと遊園地が並ぶ神戸ハーバーランド、左手には神戸空港を擁す人工島、ポートアイランドが見える、神戸港の眺めである。ここで重い荷物を降ろしてベンチに座ったところで、ようやく今回の旅路を振り返ることが出来た。
父のこと、母のこと、自分のこと、周りのこと、東京のこと、大阪のこと、昔のこと、今のこと、これからのこと。過剰すぎるほど過剰に自意識を活性化させ、暫く考え込んでみる。寒そうな、彩度の低い神戸の海の望みが、遅すぎるモラトリアムへの決別を演出してくれているようだった。
良くも悪くも今の自分が居るのは父が居るからであって、良くも悪くも父を想いながら今の自分の父親への価値観は形成された。それがダメな人だろうと立派な人だろうと、子煩悩だろうと一年に一度会うくらいだろうと、東京にいようと大阪に居ようと、というかこの世に居なくたって、良くも悪くも、人は親の影響から逃れることはできない。
血の関係は死ぬまで続くことだし、だからこそそんなことに囚われるのは馬鹿馬鹿しいし、あるいはだからこそ大切な親との関係は重要なのだ。親子という関係は、揺るがないものだからこそ、多面的に対象化する必要がある。例えば情けなくて許せない父親が居たとしたら、気持ちの整理が出来なくたって、その現状を自分で確認しておくことから始める、くらいでいいのだ。


ポートタワーを後にし、メリケンパークという海沿いの公園を、夕日の写真を撮りながら駅に向かい歩く。
屈折したファザコンを、一応自分の中の屁理屈で片付けることが出来ただけでも、今回の旅は来て良かった。
来て良かったと思えることになって良かったと、繰り返す自問自答に結論したころには、お誂え向きに雨が上がっていた。