暴かれた世界

阪神・淡路大震災(正式名称「1995年兵庫県南部地震」)から12年が経ちました。当事僕は中学生で、テレビの向こうの惨状を息を飲むように見ていたのを覚えています。僕があの時一番感じたのは震災の恐ろしさや悲惨さではなくて、自分の住む世界がすさまじい状況になっても必死で生き抜こうとする人間のしぶとさやたくましさであって、どんなことになっても世界は終わらないし終わらせない、人の本能的な強さでした。なので同時期に起こったオウム事件に端を発した若者のハルマゲドンへの心酔や、その後に小説などでブームになった終末待望観などは、まったく受け入れがたいものでした。
また、この震災が起こった1995年は別名「ボランティア元年」と呼ばれ、多くの若者がボランティアとして現地に赴いたことも話題になりました。
「何かをしなくちゃ」という想いに駆られ、実際に行動を起こすという、若者の政治的な活動へのフットワークの軽さの、ある意味で引き金になったことは間違いないとは思いますし、実際に震災の地でボランティア活動を行なった当時の大学生達は、事故発生から到着が随分遅れた機動隊よりも活躍したそうです。
ただこれを、後年に続く若者の自己表現の内の、一つの元祖とする論調はやはり納得できません。震災のボランティアに出向いた人たちの気持ちは、「本当」であると思います。なぜならば実際にそこに行って活動しているからです。ひるがえってって、例えばインターネットでボランティア的な情報を公開するだけだったり、「平和」とか言葉だけは大層な唄を歌ってみたりだとか、いかにも意味がありそうなホワイト一色のバンドを身につけてみたりだとかということを、実際に真剣に奉仕活動を行なった方々と一つにカテゴライズすることは、極めて失礼かつ危険だと思うわけです。後者は、そういうことに参加しているという自己表明をするためにそれらの活動を行なっているわけで、心の拠り所として機能している。それが悪いこととか良いこととかっていうことではなくて、そういう動きの一部として、実際のボランティア活動をも組み込んでしまうことに、【vorunteer】([名]奉仕活動、志願者、義勇兵)という、本来の言葉の意味からも違和感を感じるのですが、どうでしょうか。

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