意識の多様性を認めない「エコ」イメージ

環境社会検定試験
の、
勉強をしているつもりが、あっさり飽きて、というか忙しさにかまけてほったらかしにしていたら、この2月の試験も終わってしまった。
いかんなあ、ということで、次の7月の試験こそちゃんと受験しようと、再びテキストを手にしています。
mixiのプロフィールを書き直して、そこに「環境問題勉強中」などと書いてやったぞ。今回はいつまで続くのだか。

「どうせ北極の氷なんてなにやっても溶けるしもう手遅れだよ」という終末感。
あるいは
「ブームに浮かれやがってなにがロハスだよ」というアイロニー。
あるいは
「地球温暖化って実は嘘なんだぜ」というアンチテーゼ。
こういった考え方というかスタンスって、特に日本人に受ける気がする。
なんとなく環境に興味をもって知ってみたいという程度、気持ちとしてはニュートラルに考えたいっていうぐらいの人っていうのは、こういう考えももちろん理解できるから、そういった視線への畏怖ってあるんじゃないか。「エコ」という言葉のもつイメージが邪魔になるときがあるとしたら、なんか皮肉な話。
もう一つ、環境問題についてまわるイメージとして、一度足を踏み入れたら徹底しなきゃいけないみたいなこともある。
宣言したからには、いわゆるエコに反することは二度としちゃいけないみたいな。膨大にある問題の勉強をやすめちゃいけないみたいな。
マイブームの中で飽きてしまっても、また掘り起こしたっていいし、そのまま埋葬してもいい。ぐらいの考え方ではだめなんだろうか。もちろん地球環境そのものあそんなのんきな考えじゃだめだとはわかっているけど、しかし「エコ」の言葉の持つイメージが圧力化しては、ますますこの国には根付かないぞと考えてしまう。先日のソダーバーグ監督のインタビューで「今の若い人は何かにNOという力は強いが、YESという力が弱い」みたいなこといってたなぁ。