【海難記】に見た『日本語が亡びるとき』解釈問題の決着

編集者の仲俣暁生水村美苗の『日本語が亡びるとき』についての論争で、自身のブログで『文學界』での池田雄一の評論をとりあげて、その決着をつけていたのでブックマーク。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090208#p1
水村美苗の『日本語が亡びるとき』は、発売と同時に梅田望夫などのいわゆるアルファブロガーが、記事としてとりあげ、アマゾンで瞬間的に売り上げの一位に。そしてすぐさま朝日新聞の広告に掲載。アマゾンでの売り上げやブログでの話題などということがキャッチコピーとして利用されることの驚きも含めて、話題となった。多くの絶賛となる一方で、その内容に違和感、反感を唱える評論家もたくさんいて、仲俣さんもその後者であり、ブログでさんざん批判をしていた。

要は日本の純文学の言葉使いを良しとして、カタカナ、英語の氾濫を憂うような、国家の品格的な本っぽくて内容については興味がなかったけど、これについての是非を問う話題が面白くて、それを視ていることは面白かった。

別の記述としては正しいところも多いのだが、全体としてはとてつもなく間違っている、という印象を与える。そして、その「間違っている」という感じの理由を説明しようとすると、さらにとてつもない労力がいるのだ。

だが、そうは感じず、この本をきわめて説得力のある、感動的なテキストだと思う読者も多い。なぜ、そのような二種類の読みが生まれてくるのか。池田の文章はその理由を明快に説明している。

仲俣さんはこう書いて、池田雄一の評論を紹介している。詳しくは是非読んでもらいたいが、簡単に言うと『日本語が亡びるとき』という文芸評論を、「日本語」を主人公としたメロドラマという小説であるという視点で読むことで、その内容がはじめて対象化できる、という内容である。ってこう書くとなんだか凄いちゃちなものに思えるけど、引用されている文を読むだけでもその分析が凄いし、それで本書を完全に解釈した仲俣暁生も凄い。
小説作品としての『日本語が亡びるとき』における、水村美苗であるところの「語り手」の立ち位置と、その立ち位置故に強制させられる読者が突きつけられる自己問答。賛否両論の話題を生みながら、そのどちらの理由を解説するには非常にややこしいことになってしまうという、この作品と論調を、わかりやすくバッサリと解決してくれている。特に中盤の見事な五段論法には、仲俣さんの目を通して自分も本物の文芸評論を読んで、みるみる理解出来ているかのような錯覚さえ覚えて痛快だ。

私は池田雄一のこの文章を読んで、本物の文芸評論家はすごい、と感嘆した。さすがである。

って仲俣さん、あんたこそすごいよ。
ホントの評論て、その評論の対象をしらなくても楽しめるもんですね。